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「真田幸村と大坂の陣~名称伝説の嘘・実~」 大坂城天守閣館長 北川 央 2016-4

 NHK・大河ドラマ「真田丸」が、大変好調な滑り出しのようである。 1月30日に記念講演「真田幸村と大阪の陣~名称伝説の嘘・実~」を聞く機会があった。

   真田幸村と言えば、大坂冬の陣で大阪城の南東(大阪市天王寺区)に「真田丸」いう出城をつくり、南から侵攻してきた徳川家康軍を撃退した話、奮闘した話を聞いたことがある。 家康は、和睦条件として、大坂城の外堀を埋めさせ、真田丸を取り壊させたのは、今から402年前である。その翌年の夏の陣で、真田幸村は徳川家康本陣に突撃するがあと一歩のところで命を落としたそうである。

   真田丸ゆかりの地、現・明星高校、真田山小学校の校章は、真田家の家紋「六文銭」があしらわれていると、真田山小学校の卒業生である家内が話す。また、出城「真田丸」の跡地とも伝えられる「三光神社」の境内には、幸村の銅像が立ち、そこから幸村が掘ったといわれる抜け穴があるそうである。
  また、明星高校の南へ数百メーターのところに、仁徳天皇の高津の宮跡の碑が現存する母校・府立高津高校があり、真田山界隈を散策した頃が懐かしい。

   天王寺公園(JR天王寺駅の西北)に茶臼山という小高い丘?がある。約60年前、私が中学生の頃、放課後に時折遊んだことを思い出した。その頃、大阪城からこの茶臼山迄抜け道が掘られていると聞いたことがある。この地で冬の陣では家康が、夏の陣では幸村が布陣し、戦いが繰り広げられたとのことである。

   また、茶臼山から北へ数百メーターに位置する安居(やすい)神社で戦い疲れた幸村が打ち取られたと伝えられている。石碑と像が建てられ、幸村最後にもたれかかったとされる「さなだ松」(2代目)が残っているそうである。

   これらのさわりあたりの話は、大阪人で「真田丸」に興味ある人の知識であろうか。

   本年1月30日のロータリー・デー(ホテル・ニューオータニ大阪)において、大阪城天守閣館長・北川央氏が講演テーマ「真田幸村と大坂の陣~名称伝説の嘘・実~」“大坂の陣の謎と伝説に包まれている”を熱く語られた。
1) 徳川家康は大坂夏の陣でなくなったのか?
2) 真田幸村は大坂夏の陣後も生存したのか?

という内容で、多くの資料から引用されて説明された。

1) 徳川家康は大坂夏の陣でなくなったのか

  堺市の南宗寺にある徳川家康の墓
平野区平野東にある樋尻口地蔵堂を舞台とする「平野の地雷火」伝説
平野区平野本町の全興(せんこう)寺に祀られる「首地蔵」
辰巳池の「片葉の葦」伝説
八尾市竹淵の「塩川の藪」。塩川家に伝来する徳川家からの拝領品。

   平野区の隣接地・亀井で生まれ、現在平野に在住する私は、全興(せんこう)寺さんのことは少し知っていたが、上記の多くのことは知らなかったので、大変興味を持ってメモをした。
    特に、家康が休憩をとった樋尻口地蔵堂に仕掛けられた地雷火から危く免れ、そのお地蔵さんの首が全興寺さんまで飛んだ話、樋尻橋の下に隠れた家康の馬が幸村の馬に応じて鳴いたために幸村に見つかり、私が小学生のころ遊んだ辰巳池(現・常盤短大跡)の(片葉の葦)の中に家康が隠れて難を逃れた話、辰巳池より少し西の竹淵堤近くの塩川家の藪に逃げ込み、そこから舟に乗って平野川を逃げた話など大変興味ある数々の話を聞くことができた。

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平野郷樋尻口門跡       樋尻口地蔵堂     

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全興寺(地蔵首安置)   樋尻橋     志紀長吉神社

2) 真田幸村は大坂夏の陣後も生存したのか?

首実験の場に現れた幸村の首 豊臣秀頼の薩摩落ち伝説
鹿児島にある豊臣秀頼の墓 鹿児島にある真田幸村の墓。
子孫は「真田」姓を「真江田」と姓を称し、一族の「難波」家と共に家紋は六文銭。
鹿児島県肝属郡に屋敷を構えた跡地に「真田稲荷神社」が祀られ、境内に幸村・大助親子の仮墓塔と伝えられる石塔がある。
大分県には後藤又兵衛の墓 福岡県には木村重成の墓。
子孫は「木村」姓を江戸時代に「小林」苗字とし、明治維新後「木村」復姓。
熊本市の霊樹院跡墓所には、秀頼の娘で、熊本藩主細川家の家老有吉家に嫁いだと伝えられる「こや」姫(霊樹院)の墓がある。

   平野区に隣接する松原市在住で大阪教育大附属平野出身の講演者・北川氏は「一度桜の季節に、またサクラの散った大阪城においで下さい!」と締めくくられた。 正面のスクリーンには、大阪城のサクラの絨毯の美しい景色が映し出されていた・・・。

   その講演で初めて聞く多く内容に驚き、すばらしい演出にも感動した。
今年の桜の時期に、そして散った時期にも大阪城へ見学に行きたいものである。            

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  北川央館長   講演のスクリーン   茶臼山の真田軍                                                        (大坂城蔵)
                                        
                        2016-4-1                                                                    Y.YOSHIHARA 

(当ブログー2012年1月号より) 「大坂城は、10年は持ちこたえられる。」との千姫の言葉も空しく、数か月で和議に至った「大坂冬の陣」から、約400年(1614年―慶弔19年11月に戦が始まる)経過した・・・。(徳川家康は、天王寺区の茶臼山に陣取った。) 「冬の陣」では、徳川方は四方から大坂城を攻め、その兵約20万人、「夏の陣」は、約15,5万で大坂城の南方に対座した。(豊臣の兵は、約半分の軍勢であった) 「大坂夏の陣」といえば、我が家の前の国道25号線(奈良街道)沿いにも5か所の徳川方の陣が張られたと聞いたことがある。 (井伊直孝、藤堂高虎、加藤嘉明と黒田長政、徳川秀忠、徳川義直)

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   大坂城にて     大阪環状線     東京山手線

   終戦後に大坂城の桜の枝が折れたおかげで今日があると語る人、桜は戦後すべて焼失したという人もいる。館長にお会いする機会があれば、具足な質問するなとおしかりを受けるかもしれないが、どちらが正しいか訊ねようと思っている。

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今月のことば

「失敗は 落胆の原因ではなく 新鮮な刺激である」

ドイツ医師・作家 サザーン・トマス(1660~1746)

「間違いと失敗は 我々が前進するための訓練である」

「失敗は 成功の基(もと)」

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