「“念ずれば,叶う!”赤坂、六本木界隈散歩」2015-3
「念ずれば、叶う!」とよく言われるが、1月17日に、「その通りだ!」と感動する場面を体験した。
昨秋、大学のクラブ創立50周年の記念式典に参加の折に、卒論(卒業論文)を学んだ校舎を久ぶりに見たいと元・東大生産技術研究所を、式典の前とあくる日に捜してみたが確認することが出来なかった。。
正月休みに、その研究所の資料を見直していると、その場所のヒントとなる敷地の配置図が見つかり、敷地隣接の北の位置に、「乃木坂」の文字があった。
「これだ!。」そこは、昨秋に捜していた場所とやはり違った。
同級生で同研究室卒論受講者の生貝貢さんから「もう、解体されてないよ。」と聞いていたが、その地に何とかして行きたいと強く思っていた。
その日は、昨秋に引き続き朝から靖国神社を参拝した。
その後、赤坂のホテルに向かい、少し休憩して午後3時過ぎから研究所跡地に向かった。10分ほど歩くと乃木坂神社、その前を左に曲がり、さらに南に進むこと数百m先の大きな交差点にを右に曲がり、数分で国立新美術館の入り口にたどり着いた。
その門の前で「ここが50年前に勉強したあの地か!」と感慨にふけりながら、どのあたりであろうかと思いを馳せながらヒントの地図を広げた。
門をくぐり50m位歩いた美術館の入り口と反対側(左前方)に「碑」らしきものを見つけた。その碑には、これまでのこの地の歴史が書かれ、なんと私の右手に持つ配置図と同じ配置図が書かれているではないか。
やっと、50年前の学生時代にタイムスリップしたかと思いきや、「この古い建物の一部が、今も保存されていますよ。」とそれに関するパンフレットを係員の女性から差し出された。
しかも、田中尚研究室(故・東京大学教授)のあたりが、赤くそめられている。(その地図が示す赤い部分辺りが保存され、今は、別館として当時の資料が保管されているとのことである。)
私の見ていた碑の20m位後方に、あの世界的にも有名な黒川紀章氏設計のガラス張りの美術館(国内最大級の展示スペース)の別館と思われる建物が建っていた。50年前の学生時代の思いを込めて大阪から上京してきたことを告げると、「もう少し左によって、あの建物の左側面をよく見てください。」とのこと、なんと、その当時の外壁が目の前に迫ってきた。一瞬夢を見ているようであった。
貴重な歴史ある建築物であるということで、その建物の一部が保存され、その資料などが今もその建物に残されているとのことであった。「今日は、残念ながら休館日なので別館には入れませんが、本館に入られたら、その左側に模型が飾られていますからご覧ください。」と説明を受け、別館をバックに、私のカメラのシャッターをおしていただいた。
本館のロビーでは、東京大学、東京大学生産技術研究所の歴史が掲示され、大きなガラス張りのケースにその建物の模型が飾られていた。
数年前より、一度行ってみたいという熱い思いがやっと成就した。
「念ずれば、叶う!」
今朝の靖国神社本殿参拝のおかげであろうか。
理由はどうあれ、私の熱い思いが通じた、成就したのである。
元・生産技術研究所の模型 模型説明
(国立新美術館ロビーに於)
(その碑には、次のように書かれている)
この建物は、1928(昭和3)年に旧陸軍第一師団歩兵第三連隊の兵舎として建設されました。
独立した階段を中心に合理的・機能的に配置された居住単位、「日」の文字を形取り配置された建築構造、アールデコ調のデザインを取り入れた外壁など、ビルディング・タイプのモダンな建物として、我が国の戦前の近代建築の中でも注目すべきものでした。
戦後、在日米軍に撤収されましたが、1962(昭和37)年から東京大学生産技術研究所(一部、物性研究所)として使用され、同研究所が2001(平成13)年に東京・駒場に移転するまで使われました。
国立新美術館建設に伴い、建物は解体・撤去されることとなりましたが、建築上の歴史的価値に鑑みその一部が保存され、内部を改装の後、2006(平成18)年から国立新美術館として活用されています。
と六本木ヒルズ森タワー
美術館を後にした時は、あたりは薄暗くなっていた。そこから六本木ヒルズ森タワーに向かった。最上階(53階)のMori Art Museum(森美術館), 展望台に行こうとしたが、4月頃までリニューアルのために閉館であるとのことであった。
残念であったが、5階のレストラン街で魚の串料理なるものを食し、冷たい風の中、マフラーを首に巻き、コートの襟を立てながらホテルに向かった。
その日は、約11kmの強行軍であった。
翌日は、アークヒルズに向かった。(以前当ブログ記述したが)同級生で親友の栗原章弘(元森ビル役員)さんが、赤坂のその街区一体の開発工事の総監督として参加していた折に、その現場を案内していただいた。当時は工事中なので、本人も森ビルの(仮)エレベーターに案内するのも迷う程の大きな開発工事であった。その後、完成した建物を直接この目で見ていなかったこともあり、ホテルから歩いて15分の近場ということなのでアークヒルズに向った・・・。
しかし残念ながら、森ビルのツインビルは、休館日(日)で中に入ることはできなかったが、そのビルの裏手に位置するサントリーホールやテレビ朝日・アーク放送センターのスタジオを当時見学した思い出も印象深く記憶に残っている。
(その際に、キャスター・久米宏さんの夜9時から生番組「報道ステーション」のスタジオを見学し、サブキャスター・愛称“えっちゃん”こと小宮悦子さんと顔を合わしたことも、いまも鮮明に覚えている。)
そのツインビルの東隣にANAホテルが繋がり、2階にあるフロント前のレストランでコーヒーを飲み、さらに浅草、浜離宮に行くことにしてホテルを後にした。
アークヒルズMAP 森ビル
ANAホテル(左) サントリーホール(右奥)
(カラヤン広場から撮影)
この開発・運営は「森ビル」によるもので、当時の民間による再開発事業としては最大級の規模だった。(中曽根総理大臣の時代の再開発事業で、民間活力事業の第一号の物件である。総工事費は現在に換算すると2000億円程度になる。) プロジェクトは1967年(昭和42年)に始まり、完成には計画開始から20年近い歳月を要している。 所在地―赤坂1丁目
歩き疲れて、18日(日)の午後4時頃の新幹線で東京から、大阪に向かった。
その日は、約9km歩いたようである。
少し強行軍の二日間であったが、思い出に残る「念ずれば、叶う!」旅行となった。
「念ずれば、叶う!」この経験は、過去にも自分でも驚くことが、度々あった。
例えば、私の過去のブログに掲載した一部の
*2009年9月号
「半世紀ぶりの大悲山峰定寺と美山荘」
2009年11月号
「ミシュランガイドと美山荘」割烹店主O氏の会話から
*2014年5月号
「“草喰・なかひがし”中東氏 NHKテレビ」
中東久雄氏との出会い、志賀美恵子氏の消息
*2014年11月号
「櫻井よしこ氏の講演を聴いて」櫻井氏との出会い
等など、熱い思いは通じるようである。
「念ずれば、叶う!」「念ずれば、通ず!」
これらの言葉は、仕事においても時折感ずることがある・・・。
今後もこの言葉を胸に、元気で年輪を重ねていきたいものである。
2015-3
Y.YOSHIHARA
生産技術研究所の屋上於 2000トン大型試験機
(生貝、本間、筆者、故・大森)
前列中央・高梨晃一 安田講堂前で
(現・東大名誉教授)(50年前)(2015年1月17日)
東大本郷校舎に於いて大型試験機で実験。詩人、童謡作詞家のサトウ・ハチロウ氏の居宅(現・記念館?)の前を通り通学したのが懐かしい。(白黒写真提供―元日本空港ビルディング(株)役員・生貝貢さん)
PS アークヒルズの開発工事・総監督として参加された栗原章弘さんからのメッセージの一部
(通常の再開発は採算面から考えて5年、長くて10年以内で着工するのが通常である。
しかし、森ビルは地権者及び地元の商店街との協調を図るため時間を費やした。
その理由は、森ビルはオーナー会社であること、そのうえ不動産の所有の大部分が港区に集中しているため、将来の開発を考えて高い価格では買収はできず、港区の大家的な感覚で居住者を大事にして一緒に再開発事業に参画してもらう趣旨が根底にある。
これは、経営者が横浜市立大学の経済学部教授の経験から、地元と一緒に開発を行い発展させる意思が働いたことに起因する。
また計画地の住所は港区の赤坂と六本木にまたがるエリアなので、再整理して用途上、住居エリアは六本木、その他の事務所、商業エリアは赤坂にした。)
学生時代に、この元・東京大学生産技術研究所(現・国立新美術館)が、二・二六事件に関係あると聞いた記憶がある。
二・二六事件とは
陸軍皇道派青年将校が1483名の兵率い”昭和維新”と称して政府中枢を襲ったクーデター未遂事件。1636年(昭和11年)2月26日から29日にかけての事件。
陸軍将校の指揮による出動
反乱軍は襲撃先の抵抗を抑えるため、前日夜半から当日未明にかけて、連隊の武器を奪い、陸軍将校等の指揮により部隊は出動した。歩兵第1連隊の週番司令山口一太郎大尉はこれを黙認し、また歩兵第3連隊にあっては週番司令安藤輝三大尉自身が指揮をした。
反乱軍は機関銃など圧倒的な兵力を有しており、警備の警察官らの抵抗を制圧して、概ね損害を受けることなく襲撃に成功した
歩兵第3連隊(ほへいだい3れんたい、歩兵第三聯隊)は、大日本帝国陸軍の連隊のひとつ。駐屯地は第二次世界大戦後の東京大学生産技術研究所があった場所(現在の国立新美術館・政策研究大学院大学)。
東京大学生産技術研究所
「生産に関する技術的諸問題の科学的総合研究ならびに研究成果の実用化試験」を目的として設立された。現在は研究部門を5つ、客員部門を1つ、寄付研究部門を2つ、研究センターを8つ、千葉実験所を持つ研究所である。大学院生約600名、教員約110名、研究・技術職員約160名が在籍し、大学に附置された研究所としては日本最大級であり、世界でも屈指の規模を誇る。途中で分離した航空宇宙部門を除く広い分野を研究領域とする
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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今月のひとこと
「どうしても手におえない」一休禅師
臨終の直前に「この先、どうしても手に負えない深刻な事態が起こったら、これを開けなさい」と、弟子たちに一通の手紙を。
数年後、弟子たちは「今こそ一休禅師の力を借りたい」と思う重大な局面に、その手紙を開封すると、「慌てず、狼狽えず、先ずはその状況を受け入れて、そこから何かを考えて始めたらよいのですよ。
全ての努力をしたのなら、あとはなるようにしかならないのです。
そして、絶体絶命だと思うような事態でも、時間が経てばいつの間にかどうにかなっているものですよね…」と
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