「健康とスポーツ」2013-2
“三浦雄一郎氏が3度目のエベレストに挑戦”新年早々の「朝ズバッ!」(大阪・毎日放送テレビ)で、三浦氏の健康とスキーの話題で始まった。
雄一郎氏は一時目標を失い、身長164キロ、体重85kg、血圧200近くまで上り、不整脈もでる不健康な状態であった。しかし、山岳スキーヤ―である父の敬三氏が、99歳にしてモンブラン氷河滑降や次男豪太氏のオリンピック出場に刺激され、氏が70歳(2003年)、そして豪太氏33歳と共に、日本人初の親子同時のエベレスト(チョモランマ=チベッチト語 標高8848m)登頂した画像が流された。それから10年。
今回3度目のエベレスト挑戦の為に、週3回ほど(背中のリュックに20キロの重りを、片足に4キロの重りをつけ)約3時間程度ゆっくり歩く。
札幌の郊外にある藻岩山(標高531m)が、トレーニング場であるとのことである。(一時は、狭心症と糖尿病を発症し、藻岩山さえ登れない状態)
三浦雄一朗氏(プロスキーヤー、登山家。学校理事長)の普段からの目標は、
1-低酸素トレーニング―
高山の酸欠(地上の3分の1)対策の為に、低酸素室を作りトレーニング
2-30kgの重りをつけてウォーキング
3-体力持続のために・・・鼻で呼吸し、3時間近く歩く
4-スタミナ朝食(納豆やたまご、キムチ、山芋、ポン酢などを混ぜて食べる。)
75歳時(2008年)のエベレスト登頂(2度目)時は、20歳代?の体力と評価されたようである。
しかし不整脈の持病の悪化により、今現在も体は完調ではなく、昨年はカテーテルアブレーション(不整脈に対する非薬物療法。先端に電極の付いたカテーテルを血管から心臓内に挿入し、不整脈の原因となっている組織を50~60度の熱で焼灼。心筋焼灼術)で何か所も焼き切り?、本年も年明けから再度の心臓手術を行い、3月末から登頂を目指すとのことである。
(ベースキャンプは5300mに構え、途中5か所にキャンプ地を設け、一気に登るのでなく、約1か月間かけて何度かキャンプ間を往復して高所順応トレーニングを行い、1週間休養後、1週間かけて5月16日に登頂予定。下山も又1か月かけて体を慣らしながら・・・)
少し古いデーターであるが、成功率30%、死亡率14%とも語られていた。
成功すれば、世界最高年齢の記録樹立とのことであり、主治医からも「頑張れ!」とエールを送られているとのことである。
今年も奉仕団体の新年互礼会が「年男、年女の一言」で始まり、古希、傘寿、米寿にあたるメンバーからも健康について話された。
*歴史ある新聞販売店主・K氏(昭和4年生・年男)
昔は、「年寄」というと汚いというイメージがあった。亡き妻から「なにも上等のものを着ることはないけれど、小奇麗にするように・・・。」とよく言・・・。
*観光サービス業・H氏(昭和16年・年女)―「一生青春」を胸に・・・。
*建築設計事務所会長・K氏(数え70歳・古希)―古希という意識が今日までなかったが・・・。(毎年夏には、親子で富士登山。トレーニングの為、金剛山登山を)
*病院理事長・M氏(数え80歳・傘寿)―野球、ゴルフに精を出したい・・・。
*耳鼻咽喉科医院長・O氏(数え88歳・米寿)―金曜日の夜診察を終え、約430kmの信州?まで、奥さんと交代で愛車を運転し、スキーを満喫されている。そして日曜日に帰宅される。16歳?先輩であり、たまには親子孫3代でいかれるようである。
又、高校の友人T君も、今年も1月より毎週のようにどこかのスキー競技に挑戦中である。毎年3月には子供、お孫さんらと共に白樺国際スキー場で滑るのが恒例の行事だそうである。(一昨年は、偶然にも3月11日・東日本大震災の日であたったとのことである。)
私も高校から今年の正月まで、ほぼ毎年どこかのスキー場に出かけ、我流ながらも年相応に無理をしないで滑ってきた。これからも親子孫3代でスキーを楽しむことを目標に掲げ、健康でありたいものである。(昨年2月初孫誕生)
多くの先輩の元気な姿を身近で見たり聞いたりするにつけ、まだまだ頑張るファイトが沸いてくる。
スポーツで汗をかき、いつまでも若々しく「一生青春」「一生現役」で居たいものである。
2013-3
座禅草 御堂筋のイルミション(2013.1.19)
三浦雄一郎氏略歴(フリー百科辞典「ウィキぺディア」より抜粋
1932年青森県生まれ。
プロスキーヤー、登山家、クラーク記念国際高等学校校長
北海道大学・獣医学部卒業、助手として勤務、26歳で辞任。
1960年代 スキー学校開設
1962年 アメリカの世界プロ選手権に参加8位(トニーザイラーらオリンピックメダリストも参加)
1964年 イタリア開催キロメーターランセに日本人で初めて参加、時速172.084キロの当時世界新記録を樹立
1966年 富士山での直滑降(ブレーキとして使用したパラシュートが、パラグライダーが作られるきっかけとなったという)
1970年(37歳) エベレストのサウスコル8000m地点からの滑降(ギネスブックに掲載)(The Man Who Skied Down Everest』(「エベレストを滑った男」)というタイトルでドキュメンタリー映画化され、アカデミー賞記録映画部門で賞を獲得。
1987年(54歳) 南アメリカ大陸の最高峰アコンカグアからの滑降を成功させたことにより、世界七大陸最高峰全峰からの滑降を成功。
1973年 青森大学工学部生物工学科教授に就任。
1971年 スポーツ英雄大賞(スペイン)。
1975年 米アカデミー賞(長編記録映画部門)。
1992年 クラーク記念国際高等学校校長。
2006年 NPOグローバル・スポーツ・アライアンス理事長を務める。
2006年 日本経済新聞に「私の履歴書」を連載。
2008年 75歳(世界歴代2位)でエベレストに再登頂。
2009年 札幌市内のスキー場で骨盤を骨折。
2012年10月、2013年春に80歳で3度目のエベレストに再登頂することを会見。成功すれば最高齢登頂者となる
父・三浦敬三氏(山岳スキーヤー)、長男・雄大氏(競技スキーヤー)、二男・豪太氏(オリンピック出場)親子孫3代のスキーヤー一家である。
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今月のひとこと「安岡正篤一日一言」より
内外の状況を深思しましょう。
このままで往けば、日本は自滅するほかはありません。
我々はこれをどうすることも出来ないのでしょうか。
我々が何もしなければ、誰がどうしてくれましょうか。
我々が何とかするほか無いのです。
我々は日本を易えることが出来ます。
暗黒を嘆くより、一燈を付けましょう。
我々はまず我々の周囲の暗を照す一燈になりましょう。
手のとどく限り、至る所に燈明を供えましょう。
一人一燈なれば、萬人萬燈です。
日本はたちまち明るくなりましょう。
これ我々の萬燈行であります。
互に真剣にこの世直し行を励もうではありませんか。
『安岡正篤一日一言』より(致知出版社刊)
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